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聖地・清里

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一応、こんな記事が出ていたので

 ・清里が様変わり 温泉掘削し中高年を的に asahi.com

あの頃、なぜ清里にあれだけのビジターが訪れたのか(僕はそのころペンションでアルバイトをしていた)。客観的に見れば清里の持つポテンシャルもさることながら、「メディアの影響」がとても大きかったのだと思う。その名もずばり「アンノン族」と呼ばれた方達は、雑誌「an•an」「non•no」の掲載されたことで、清里を訪れ、その一群がイノベータとなって全体を引っ張って来た時代があった。それだけにその一群にとっては「メディアに登場しない清里」には、すでに魅力は無くなってきたのである。逆をいえば、再び「メディアに登場する清里」を作れれば、ビジターは訪れるのである。

□清里が復活に賭けている。
そのような中で、すでに何が必要なのかを見抜いている人たちもいる。「人は石垣、人は城」とは甲斐の武田信玄の言葉だが、いきつくところはそこにあるように思う。清里に行くのではなく「もう一度逢いたいあの人」に逢いに行くのだ。箱ものは基本的な装置としての充実は必要ではある。しかし一方で、清里に住む[人の魅力]を[自身のメディア]によって伝えることが、今の清里に必要なのではないだろうか。

 ・このガイドさんに会いたい100人プロジェクト エコツアー.jp
 ・ステイタス/山梨県北杜市

【統計】
 単純な比較ですが、こんなところにも傾向が出ているのでは?
 Google検索結果の件数
 [清里 ]1,240,000件(北海道 清里町も含まれる)
  [清里 高根町]79,200件
  [清里 北杜市]131,000件
  [清里 北杜市 高根町]59,600件
 [山中湖]1,340,000件
 [湯布院]1,570,000 件
 [小布施] 625,000件

ある方に言われて気がついたのですが、あんなに好きな八ヶ岳から離れて4年。僕にとってはなんだか、昔の恋人に感じるのと同じような感覚を持っているみたいです。だからこんなふうに記事になると、昔の恋人の評判を聞いているみたいで、ちょっとキュンとなったりします。実は婚姻届を出した時に本籍地を「かの地」に移しています。離婚したときも、僕はそのままなので、今でも僕の本籍地は清里にあります。


1980年代に「ミニ原宿」といわれ、若い女性に大人気だった高原リゾート地の清里(北杜市)が、様変わりしている。観光客は激減し、ホテルやペンションは相次ぎ撤退。牧場の中の赤い三角屋根で清里のシンボルになってきた宿泊施設・清泉寮も、主な客層のターゲットを中高年に切り替え、牧場で温泉掘削に乗り出した。(一部地域既報)
 JR小海線・清里駅から2キロ弱。米国風のしゃれた木造2階の清泉寮の隣ではいま、温泉の掘削作業が進んでいる。約1500メートルを掘って湯を引き、宿泊棟も新築する。09年春に開業する予定だ。運営する財団法人キープ協会の桶本隆男常務理事は「八ケ岳と富士山を眺めながら入れる温泉ができれば、冬でも大人の観光客が来てくれる」と説明する。
 清里は80年代初め、若い女性向けファッション誌のグラビア撮影地となり、丘の連なる高原の風景が人気を呼んだ。女子大生らの間では、清泉のソフトクリームを食べ、ペンションや清泉寮に泊まるのがブームに。ドライブコースの名所ともなった。「ソフトクリーム売り場に100人以上の列ができたり、清泉寮から清里駅までの道が車で詰まったりするほどだった」と関係者は振り返る。
 ところが、90年代になってバブルが崩壊。近隣の観光地・小淵沢が大型アウトレットモールなどを誘致したこともあり、清里は地盤沈下した。旧高根町(現在の北杜市)が調べた観光客数は、92年の265万人をピークに99年には205万人に。その後は統計もとらなくなったが、現在は「ピーク時の半分以下」(地元観光業者)といわれる。
 清里駅前に並んだタレントショップはほとんど撤退。05年秋には駅前のホテルも廃業し、更地になった。駅周辺にあった三つのスーパーもなくなった。
 80年代に出店ラッシュが続いたペンションも減少の一途だ。ブームにあやかろうと、『脱サラ』をして乗り込んだ経営者たちも次々と撤退していったという。経営者の1人(58)は「『玄関先でもいいから泊めてください』という女子大生がいたバブルは遠い昔。清里ブランドはもう通用しない」と嘆く。
 清泉寮の宿泊客も、80年の3万6千人をピークに05年は2万3千人まで減った。客層もいまは40代以上が中心で、家族連れが目立つ。「ブームだった頃に来ていたお客様もいるが、バブル後に来てくれるようになった落ち着いた感じのお客様も多い気がする」という。
 そこで集客策として選んだのが、温泉の導入だった。300人を収容できる会議場の建設も計画。戦前、日米協力による開拓を掲げて清里に入ったキープ協会創設者の故ポール・ラッシュ博士らの教えにならい、国際交流・貢献の場としても活用させたいという。
 同協会の桶本常務理事は「バブルの頃はあまりにも『ミーハー的』だった。原点に戻りたい」といい、将来は清里を「スイスの保養地ダボスのような場所にしたい」と意気込んでいる。(岡戸佑樹)

コメント

  1. 愛美 より:

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    清里は今日は一面、雪景色。
    清泉寮には今年も変わらず、ポップコーンクリスマスツリーが飾られていますよ。 Like

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    キープ協会で図書館とインターネット放送局を作るような際は、微力ながらお手伝いしますよ。
    ビジターとしてみれば、「その清里の美しさを発見して伝えてくれる“あなた”に会いたい」んじゃないかなぁ…って思っています。
    そう考えるとあの80年代は「清里の美しさを伝えてくれた“雑誌”に便乗したかった」のだと思うのです。映画のロケ地めぐりも同様ですね。
    あ、そうそう来年は「西の魔女が死んだ」の公開もありますが、それなりに来清者数にも影響がでると思います。ショップで書籍の販売も準備しておくとよいですよ…たぶん。 Like

  3. らんたん より:

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    軽井沢との違いってなんでしょうね。文化の差なんでしょうね・・・
    普通なら団塊の世代の引退後のセカンドライフにうってつけですがね。保養地というのはリハビリセンター等も含みますからね。でも精神病院とか知的障害施設を嫌うでしょ。だめだよね。サナトリウムも作るべきなんだよね。温泉言うのなら。ついでに教会なんかもね。軽井沢みたいに。 Like

  4. まる3 より:

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    >らんたん さん
    コメントありがとうございます。
    これまでも、清里と軽井沢はよく比較されますね。
    どちらも外国の宣教師が関わっていますが、軽井沢は別荘地/保養所として、清里は学生のための研修所(初期の清泉寮)と小河内ダムによって移住した人たちの開拓地であることから、スタートラインで異なっています。
    軽井沢が別荘地/保養所として開かれた後に「軽井沢を舞台とする小説」というカタチでメディアに登場します。清里はそうした文化の香りがするカタチでメディアには登場せず、80年代の女性雑誌「アンアン」や「ノンノ」というファッション誌というカタチでメディアに登場したことに、大きな差があるように思います。
     もちろん、80年代以前にも、学校寮や自治体の保養施設としての開発はありましたが、個人別荘は80年代後半、広大な県有林を活用した「清里の森」が開発されるまで多くはありませんでした(清里の森も三浦友和さんのお姉さんが経営されるペンションがあったことから「百恵チャンのペンション」がある別荘地として認識されてしまいました)。
     そういう意味で、いいも悪いも「メディアに登場するリゾート」であることで、集客を得ていた土地柄なのです。 Like

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