先日見た映画「水になった村」大西暢夫監督を見てから、どうも[記録すること]に対して今まで以上に強く感じることがある。
映画では、ダムによって沈むという理由によって消えていく村の暮らしを、ジジババとともに過ごすことで映像として記録していったものを、映画にまとめたものだ。大西監督は本来はスチルカメラマンであり、写真撮影のかたわら(?)撮影していた映像があったことで、今回の映画になったという。
今日、ダムで消える村は少ないだろうが、それでも住民の高齢化によって[限界集落]として地域コミュニティが維持できず、いずれは消滅してしまう地域がこの国にはかなりの数が存在している。コンパクトシティー論からみれば、それもいたしかたないことかもしれないのだが、せめてそこに人々が暮らしていた記憶だけでも後世に残すことができたら…と、考えずにはいられない。
僕が参加しているNPOでは、誰かが記録した[地域資料]をデジタル化することがミッションであるかのように思いがちではあるが、自分たち自身が地域を記録し、後世に伝えていくこともまた、大きな役割ではないだろうか。少なくとも地域コンテンツは、現地に出かけなければ手に入らないと思うのです。緊急性から考えれば、文化財や伝承行事などと同様に、「限界集落の記録」もまた重要なのではないだろうか…と。
【参考】
・限界集落 Wikipedia
限界集落ーMarginal Village
梶井照陰 / / フォイル
スコア選択: ★★
山村環境社会学序説―現代山村の限界集落化と流域共同管理
大野 晃 / / 農山漁村文化協会
スコア選択: ★★
平日は山中湖村の森の中にある図書館 山中湖情報創造館に、週末は清里高原の廃校になった小学校を活用したコワーキングスペースもある 八ヶ岳コモンズにいます。「わたしをかなえる居場所づくり」をイメージしながら、テレワークに加えて動画撮影やネット副業などにもチャレンジできる図書館/コワーキングスペースづくりに取り組んでいます。
コメント
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「限界集落」の言葉の意味からすると、きっと50年後にはどこもが限界集落になってしまうのでしょうね。ダムの恩恵を受ける都市部の人とそのためにふるさとを水底に失ってしまう山村の人、何とも言えないものがありますよね。 Like
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限界集落は、たぶんそのまま放置され、いたしかたなく都市部への移住を選択せざるを得ない社会にしていくのだと思います。社会主義国ならば半ば強制的に移住させることもできそうですが、日本ではまず不可能です。ただほっといても、どんどん限界集落になっていくほど高齢者社会は深刻さを増しています。
できることならば、しかたがなくそうなる…ことよりも、積極的にコンパクトシティ化にし、いったん大きな移動を済ませたら、あとは徒歩や自転車で生活できる…そんな社会づくりを目指すんだ〜!と言ってもらった方がいいんじゃないかな…と、思うのです。
かつての米国は、タウン内の移動とタウン間の移動に、一定の区分けができていたように思うのです。またヨーロッパなどでは、城を中心に領民は『城壁』に囲まれたエリアに住み、その外側に農場をおくことで、田園地帯が形成されたようです。日本では城壁の外に領民が住む社会づくりをしたおかげで、のべつまくなし、どこもかしこも人が住むようになってしまいました(ゆえに田園風景はそもそもありません)。
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