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芸術的児童文学は「一発芸人」みたいな登場人物ばかり?!

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(ひとりごとです。誤解をうけそうですが、作品の内容や道徳的なことを指摘しているのではなく、そこに登場する登場人物/キャラクターの生命力というか、存在力みたいなところでの話しです)

(すぐに論文を書くにはいたりませんが、児童文学における[キャラクター]と[プレイス]について、リサーチしてみたいと思います…が、目的は、どうやって今の子どもたちと本との出会いを取り持つか…であって、批判や誰かをやり込めることではありません。お間違いなく)


児童文学における登場人物/キャラクターのことを考えていたりします。
その中での発見(…になるかなぁ)です。ものの見方/捉え方といってもいいです。

 「一発芸人」みたいな登場の仕方なんです。

一つの物語でしか登場しない人物の実に多いこと。
他の物語にも同一人物が登場することは…まずとっても珍しいくらい。

こうした傾向は、今の子どもたちの目線からみれば、それはまるで一発ギャグで一年で消え去ってしまう…いわゆる「一発芸人」みたいな登場の仕方と同じ。そんな風に思われているとしたら…どう切り返しましょうか?

・同じ作者による他の作品を横断して登場する[人物/キャラクター]は、稀少(ほとんどない)。
・ましてや、他の作家の作品にも登場するほどの[人物/キャラクター]は、皆無状態。

・そもそも、そんなことは芸術的児童文学の世界には必要ないのか…も。

コメント

  1. やまこ より:

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    息子(28歳)の書棚から拾った文庫本の作家・伊坂幸太郎のシリーズは、けっこう楽しめました。
    登場人物がまったく違う物語(舞台もテーマも別)に出てきたり。ファンサイトがあり、いろんな作品から抽出した人物相関図があったり。
    こういう感覚って、ゲーム世代のものだな……と妙に納得したりして。
    必要ないかあるかはわからないけど。
    可能性を秘めているかも。 Like

  2. SECRET: 0
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    >やまこ さん
    いつもコメントありがとうございます。
    麻生総理ではありませんが、「キャラが立っている」のですね。作家としても作品世界があって、その世界からのエピソードとしての作品づくり。だからその作品世界には、読者の数だけ別のエピソードがあったりする。同人誌の世界などでも、そうしたアナザーストーリーで、世界観を共有する感覚。
    ゲーム世代のもの…に特有なのかなぁ…と思ったりもしますが、児童文学の作品に[子どもたちとの物語世界の共有]が必要なんじゃないか。その中に[自分がモデルとする人物像]があれば、これほど幸せなことはないんじゃないか…なんてね。
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