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“公共”図書館の再定義が必要な時代へ

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先日このブログでも紹介した「情報の科学と技術」最新号の特集を、拝読いたしました。
日本の公立図書館よりは、10年いや四半世紀以上進んでいるといわれる米国の公共図書館も、一朝一夕にしてそうなったわけではないことが伝わってきます。

依田氏の論文にもあるように、公立図書館の財政基盤をつくるための寄付においても、「複線性・戦略性・科学性」が必要となるのは、思いつきの積み重ねではなく、『勝つために何をすべきか』を真剣に考え取り組んでいる姿をみることができます。そういう意味において、公共図書館における中長期的な事業計画が必要になるのだと思うと、指定管理者の協定期間だけでの取り組みには、限界を感じてしまいますね。

また、公共図書館自身だけでなく、その外側に図書館財団や図書館友の会などによる基金の存在も重要で、特に地域コミュニティが公共図書館を支える真の意味でのパトロン(注:図書館利用者の英単語は、patron である)になるために必要不可欠な仕組みではないだろうかと考えている。これであれば期間に制約されることはない。

そういう意味で、実は米国の公共図書館には、自治体が設置した公立公共図書館だけでなく、公益法人である財団などが設置した、私立公共図書館/私設公共図書館も少なくはない。有名なところでは、ニューヨーク公共図書館は、ニューヨーク市立図書館ではなく、NPOが設置している公共図書館なのである。

さて、米国の事例を羨望のまなざしで見ているだけでは、何の解決にもならない。

パブリックであることとガバメンタルであることは、やはり違うと思う。公共図書館がパブリックライブラリーであるためには、その定義そのものを、見直さなければならないのではないだろうか。


ちなみに、今回の特集の中でも登場する文言なのだが、米国はキリスト教のフィランソロピーが云々ということがあげられており、本来日本には寄付の文化がないような記述があるが、大きな間違いである。日本においても、寄付の文化はあり、大阪府などでは商人が道路や橋といった公共財をつくってきた経緯があるし、お祭り等では寄付を集めるなどの活動もある。日本においても、寄付をはじめとして、“公共”へのかかわり方が、再定義される時代になってほしいものである。

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