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OPAC vs 知識のWitch Pot

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時間的にも距離的にも会場に行けない者としては、こちらのレポートは、本当に助かります。

 ・2009-05-12 かたつむりは電子図書館の夢をみるか

『もう、「本」や「図書館」はいらない!?』と題したトークセッション。語るは国立国会図書館館長の長尾真さんと、評論家/翻訳家である山形浩生さん。

 ・図書館は視えなくなるか? 
―データベースからアーキテクチャへ ―
d-labo Tokyo Midtown Tower

僕はこのブログでのレポートを読んだ限りではありますが、長尾館長にしろ山形さんにしろ大原則として「本」というかたまりを扱おうとしているのではないか…と、思えてしまうんです。SGMLなどの構造化も知識は[本というかたまりの中にある]という前提なんです。たぶん、将来/未来のOPACを考える上でも示唆的ではあると思うのですが、ここに図書館とOPACの限界を感じてしまいます。つまり…OPACでの検索結果は、印刷物であろうと電子出版であろうと「本」というかたまりを扱うということ。

それに対して、僕は根本的に異なるもののイメージを持っていたりします。たとえで言えば、僕のイメージは、「魔女の鍋 Witch Pot」なんです。「知識を煮込む魔女の鍋」そんなイメージ。図書館に対しても、OPACにはないもうひとつの(オルタナティブな)図書館情報システム。

簡単なたとえで言えば、図書館で扱う本のひとつひとつを《食材》のように捉えます。図書館は知識のスーパーマーケットみたいな感じ。大根や人参、魚やお肉などを扱っているようなものです。それに対して、《食材》を考えてみれば、お惣菜などの調理済みの食材を売っていたり、冷凍職員や加工食品を売っていたりします。今の図書館はひいき目にみても、そこまでなんです。ここでポイントなのが図書館は知識の食材屋さんであっても、知識のレストランではないです。だから調理されたものではなく、知の素材である「本」にこだわるんですね。

僕のイメージする「知識の魔女の鍋」では、「本」は野菜をカットするように切り刻みます。百科事典なら「見出し語」で切ったり、写真集や画集ならば一点一点の作品で切ってみたりとか…それらを「図書館」という大鍋に入れてぐつぐつと煮込む。もう「本」という原形すらとどめない状態まで煮込む。実際に本を切り刻む訳にはいきませんが、もし本当にやるとしたら、同じ本を『3冊』購入し、1冊は奇数ページ切り抜き用、1冊は偶数ページ切り抜き用、残りの1冊は切り刻むことなく排架用とします。奇数ページも偶数ページも見出し語単位で切り抜いた知識は「目録カード」のように50音順に引き出しに入れる…そんな感じ(見出し語の50音順や、件名、カテゴリー分類などいろいろな方法があるようにも思いますが)。

そんな風に「知識を煮込む魔女の鍋」の中でぐつぐつとした後は、知識のパスタサーバを使います。そのパスタサーバには調べたいことを書いて、鍋のなかでかき回すと….あ〜ら不思議。からまるスパゲッティのように、必要とする知識がずるずるずる〜っと引き上げられてくる。
これをお皿に盛りつければ、調べたいこと料理のできあがり。
もう本来の野菜のカタチ(いわば「本」)にはこだわりません。ビストロの料理のように知りたい知識がぞれぞれの素材からからまりあって目の前に出てくる感じです。

というわけで、OPACがどんなに進化したとしても検索結果を「本」とするのに対して、知識のWitchPotは「本」を知識単位でばらばらにしたものを再構築/再構成できる…そんな情報拠点であり情報システムをイメージしていたりするのです。

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