こんにちは、まる3です。
今日はちょっとシリアスなテーマです
僕が参加している「死」をテーマにしている団体
僕が参加している活動団体がいくつかあるなかで、人のエンディング=終活から葬送、埋葬、供養など「死」をテーマにしながら次の時代に対応できるプロセス/スタイルのあり方を考えている会があります。
先日、その会の役員が集まる機会があったのですが、その場面でやはりかんがえておかなければならないこと…として重要なテーマがあることにあらためて考えさせられてしまいました。
南海トラフ巨大地震の犠牲者=死亡者数
それは、今後30年以内に80%の確率で発生すると予測されている震度7を超えるかもしれない巨大地震とそれによる津波災害で、かつては32万3千人といわれ最近の調査では少し減って28万1千人と少なくはなったものの、それでも極めて短時間の中で十万人規模の死者が出ることが予想されている巨大災害があります。また南海トラフ地震だけでなく、首都直下地震もあれば、毎年のように起こる巨大台風や温暖化型豪雨などによる河川の決壊で数多くの犠牲者が出ることも、これから毎年のように起こるかもしれません。
そうしたとき、私たちはどのような心構えをしておけばよいのでしょうか?
東日本大震災による犠牲者は死者1万5897人、不明2533人(2019年3月調べ)とある。これはただ1万5897人の死があるのではなく、一人の死が1万5897もある…という捉え方をしなければならない。
死者だからといって人権が失われたわけでは無い。だがその時、巨大地震の発生後にどれだけ死者の尊厳を尊重しながら対応できるか…正直なところ何一つ自信は無いのが現状である。
犠牲者の収容
負傷者や犠牲者の収容、また避難してきた人たちの収容スペースは、圧倒的に足りない状況が生まれる。生きている人たちも、すでに亡くなってしまった人たちも同じ避難所に入らなければならない状況になるかもしれない。
冬でもここのところの暖冬もあるし、もし災害が夏に発生したとしたらご遺体の傷みはかなり早い。衛生状態や臭いなどの問題も起こるであろう。
現在、各自治体は災害時における「災害時における遺体の取扱いに関する共通指針/ガイドライン」を作っているところもある。ただこれまでにも怪我人などを想定した防災訓練はあるが「遺体に対する取り扱い」を訓練する防災訓練はあまり聞かない。怪我の状況により治療の優先順位をつけるトリアージ訓練などもあるが、そこで[黒]と判定された人への対応がどうなっているのかを目にしたことはほとんどない。(すみません勉強不足なだけです)
圧倒的に遺体を安置する場所が不足する。
遺体に関しては次の「検死」が行われない限り何もできないのが現状であろう。
犠牲者の検視
ご遺体の検視は当然ながら「医師免許」を持っている人が行わなければならない。またどこで発見救助され、どのような様子だったか、着衣は?所持品は?など写真で記録を取りながらの作業となるだろう。また家族による確認も必要だろうし、医師による検視が不可欠になる。
こうした医師による検視が行われない限り、心肺停止状態の人がそこにいる…という状況であり、次のプロセスの[火葬]も[仮埋葬]もすることができない。
遺体安置所におけるドライアイスも不足してくるだろう。
犠牲者の火葬/仮埋葬
犠牲者の検死が終わってからも火葬場もすぐにできるわけではない。医師による死亡診断書をもって役場の火葬許可証をもらわなくてはならない。役所がそうした機能が動いているかどうか…も疑問である。役所に勤める公務員さんご自身も自分や家族が被害にあっている中、役所の建物すらも耐震構造がどこまで保っているか。津波で流されていないか…など、役所の機能がちゃんと動いているかも気になるところだ。もしも役所が機能していなければ、いくら医師による死亡診断書があっても火葬することはできない。
また東日本大震災の際に実際にあった[仮埋葬]という手続きもまた、過酷を極めるらしい。死亡診断がされ棺桶に収められたご遺体を、火葬することなく(火葬できる状況ではない)というときに、地面に大きな穴を掘って棺桶を並べて土をかける作業である。そのまま土葬してしまうのではなく、あくまでも「仮」埋葬ということで後日掘り起こし、火葬を経て埋葬するという流れなのだが、実際に仮埋葬の掘り起こしは困難を極めるらしい。もともと土葬に適した棺ではないので、土砂の重みに耐えきれず破壊し、遺体は土にまみれ掘り起こしの作業とあいまってかなりバラバラになってしまうらしい。こうしたご苦労をされる人のことを思うとやりきれない気持ちなってしまうが、そもそも日本には土葬を前提とした棺を作る習慣はない。かつての土葬においてはまさに棺桶という言葉がそのままであるように大きな「桶」に膝を折った姿で棺に納めて、その棺ごと土に埋めているというものです。
犠牲者の本埋葬
火葬された遺灰になり骨壺に納められても、肝心の埋葬する墓地/霊園が地震や津波の被害に遭っているということもある。すぐに先祖代々の墓地に納骨することができない状況も考えられる。また仮埋葬から掘り起こし火葬の手続きを経ても同様だ。
もしかしたら、お寺の檀家さんであってもその菩提寺が巨大地震の被害にあい墓地/霊園として機能していなければ、全く違う場所に埋葬せざるを得ないこともでてくるかもしれない。引き取り手のないご遺骨は永代供養墓に埋葬されてしまうかもしれない。
犠牲者の弔い(葬儀)
もはやご遺族が十分になっとくできる葬儀などできる状況ではないかもしれない。住んでいる家もなく、避難所暮らし、菩提寺もなければセレモニーホールもない…そんな状況が被災地のあちらこちらで生まれてしまう。
災害もひと段落すれば合同慰霊祭などのイベントも行われるかもしれないが、それまではどこの誰が、どのように亡くなり、どのように葬送され、埋葬されたか、そんな記録をどうやって取り、保存し、求める人に情報提供できるか(個人情報なので〜という言い訳は死者には通用しない)。
私たちは30年以内に80%の確率で発生するのが巨大地震だけだと思っているがそうではない。巨大地震に伴う津波被害、家屋の倒壊、多くの犠牲者、短時間のうちに数万人という死者の数に向き合わざるを得ない未来が予測されているである。
しかしながら私たちはその大量犠牲者の時代に向き合うための心の準備などはできていない。
犠牲者の供養
ここまで書いてきて、実はかなりの惨状をこれからの日本を生きる私たちは目にしていかなければならないのかもしれない…と、かなり心が重たくなってしまった。
もしかしたら、遺体すらない、遺骨も何もない……ただ行方不明とされただけで、捜索は継続されるだろうが、残された人たちが探す以外何ひとつできない状況がたくさん生まれてくるだろう。
さらに、死んだという確証がないまま死んだことにされてしまう人たちも出てくる。
そうしたときに私たちは何をもって故人の死をうけいれるのだろうか?
また本当に「遺骨」がなければ死を受け入れられないのだろうか?
そんないろいろなことを考えてしまうのである。
準備しておきたい思い出の保管と自分のDNA
さぁ、ここまできて「災害の犠牲者は自分ではない誰か」という印象を持ってはいないだろうは?いやいやいや、なんといってもその巨大災害によって死んでしまうのは自分である確率だってけっこう高いのだ。
もしもいざというとき自分自身が「死」を受け入れなければならないとき、どうしたらよいのか。そんな心構えさえ実は何もできていない。
そんな中で僕は2つのことを提案したい。
想い出を継承するためにIDとパスワードを記録しておく
ひとつは、思い出の継承のためにデジタル機器やオンラインサービスのIDとパスワードを、いざというときに大切な人に渡せるようにしておくこと。
自分のDNAを残しておく
もうひとつは、自分自身のDNAを記録しておくこと。髪の毛でもいい、ちゃんとした検査も数万円でできる時代になってきている(それでも高いか)。
あとは、自殺の名所の看板ではないが「ハードディスクは消したか」「家の中に他人に見られたくない本は置いていないか」などがあるかもしれない。
このような状態に対して巨大地震を「メガ・クェーク」と呼ぶのであれば、「メガ・ビクティム」な状況といえるだろう。想定を遥かに超えた死者の数と向き合わなければならない将来が来るとするなら、今できる心構えはなんだろう?
そんなことを真剣に考えておく必要がありはしないだろうか?
平日は山中湖村の森の中にある図書館 山中湖情報創造館に、週末は清里高原の廃校になった小学校を活用したコワーキングスペースもある 八ヶ岳コモンズにいます。「わたしをかなえる居場所づくり」をイメージしながら、テレワークに加えて動画撮影やネット副業などにもチャレンジできる図書館/コワーキングスペースづくりに取り組んでいます。
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