震災アーカイブスとソーシャル文学
〜電子書籍時代の物語叙述の担い手と組織化〜
丸山高弘(NPO法人地域資料デジタル化研究会/山中湖情報創造館)
電子書籍元年が不発といわれるのは、何もガジェットだけが原因ではない。むしろ電子書籍リーダーに罪があるのではなく、むしろその創作物である物語(著作)側に問題があったと考えられるのではないか。ケータイ電話のあの画面性の中で独自の文学スタイルをつくることで、「ケータイ小説」というひとつのジャンルを誕生させたことと比較すれば、ケータイ画面以上の表現力を持ち得ながら、表現スタイルを生み出す事ができなかった電子書籍(コンテンツ)側に、やはり問題があったのではないだろうか?
著者は、昨今の特徴的な物語スタイルを、電子書籍時代に向けてさらに推進させ、それがひとつのスタイルを生み出すことを期待している。しかもそれは、東日本大震災後に一種のブームにもなってきたデジタルアーカイブスなどに象徴するような「記憶の記述と組織化」にも触手を伸ばし得る。
物語記述の潮流
「機動戦士ガンダム」をご存知だろうか?詳しい方であれば、それは「ファーストガンダム」のこと?それともUC?あるいはAGE?等々、いろいろなタイトルを出しながら確認してくるかもしれない。そうまさに「オタク」と嘲笑させるように、非常に詳しいのだ。そのひとつひとつの物語に、そしてその『世界観』に。
「機動戦士ガンダム」は、人が乗り込む操縦型のロボットが戦争の道具として使われ、その操縦者である主人公たちの、いわは青春ドラマのようなものだ。「ファーストガンダム」「Z(ゼータ)」「ZZ(ダブルゼータ)」等々、メインストリームだけでもすでに__種類、さらにその世界観をベースにした、スピンオフあるいはサイドストーリーとよばれるものが、数多く存在している。しかもそれらが、著者や著者グループ(権利団体)だけでなく、ファンによっても生み出されている。いわゆる参加型ともいえる物語叙述世界になっているのだ。
これはガンダムシリーズだけではない。これまでにもひとりの著者が書き表した物語においても、ひとつの物語の脇役を別の物語の主人公にしたストーリーを描くことは多々ある。夢枕獏の『キマイラ・吼(こう)』シリーズと『闇狩り師』シリーズや鎌池和馬の『とある魔術の禁書目録(インデックス)』と『とある科学の超電磁砲(レールガン)』などのように同じ世界観の物語を、登場人物を交差させながら別の物語を展開させていたりする。
この『世界観』そのものは、現行の著作権法では著作物とは扱われないが、出版社や著者ユニットのようなスタイルで、この『世界観』と派生する物語を売り物にしていく。当然ながら、小説だけではなく、アニメ化、コミック化、キャラクター商品などの展開も視野に入れながら。
すでに、そんな物語記述の潮流が生まれていると、著者は思うのです。
戦争文学と震災文学
ガンダムシリーズが戦争物語であったことが何よりも象徴的なことなのだが、現実においても戦争文学は、ひとつの世界観を共有した物語記述のスタイルになるのではないか。ふと、そんなことを考えるに至っている。
便宜上、地球儀(世界地図)を平面にとり、時間軸を高さ方向にとることで『歴史の立体』をイメージすることができる。様々な戦争文学は、その『歴史の立体』の中に紛れ込んだロープのように、場所と時間をくねくねと進みながら戦時下の物語を紡いでいる。ビジュアルをイメージしてほしい。日本各地から若者たちが招集された姿は、まるで紐が撚れていく姿のようであり、その紐が呉の港を出て坊ノ岬でぷっつりと途切れるまでが、戦艦大和の物語であったりする。
このように、「戦争」というひとつの世界観の中で、様々な物語が生まれている。それらを、場所と時間の立方体に位置づけることで、様々な世界観を多面的に知ることができるのである。ある物語は[人物]を中心にしているかもしれない、その人物は、別の人物とかかわり合い、様々な事件や出来事の中で物語が生まれていく。この世界観の中の物語記述には、図書館情報学的な十進分類や件名づけなどの組織化では、表現しきれないのだ。
そして、この3月の大震災を経験して、これが「戦争文学」だけではなく「大規模大害時」においても、同様に様々な物語が生まれていることを、あらためて認識している。戦争文学と比類する大規模災害文学という存在がある。ある物語は小説になり、またある物語は絵本になり、口述だけのもの、文字ではなくコミックのカタチになったもの…それは、もう実に様々だ。しかし、あの震災を、様々な場所で、いろいろなシチュエーションの中で、それぞれの人々が体験し、物語を紡いだのであれば、それはとても大きな存在ではないだろうか。
震災アーカイブの組織化
著者は所属しているNPO法人の活動の中で、すでに十年ほどデジタルアーカイブに取り組んでいるが、東日本大震災の前と後とでは、この『デジタルアーカイブ』に対する社会の関心がこれほどまでに変化するものになるとは、予想すらしなかった。
津波被災後にガレキ(という表現は好ましく無いのだが)にまぎれた、家族のアルバム。そこに写っている幸せな日々の思い出。自衛隊のガレキ撤去の際にも、細心の注意を払いできるかぎり回収し、持ち主に戻すように努力することが義務づけられた。それだけ、記憶の記録は大切なものであることを改めて認識させられた。これらが震災前にデジタル化され、クラウド上に保存されていたなら…と、思うことは少なく無い。
そしてさらに、インターネット企業の呼びかけにより、被災地の姿の記録や、被災する前の想い出の風景などの記録を、参加型で構築するデジタルアーカイブの取り組みがいくつも生まれている。
そこでとても重要なことは、誰かが分類整理するわけではない。ということだ。
図書館の司書(ライブラリアン)のような存在がいて、投稿された写真を整理分類するわけではない。むしろ投稿者自身が、タイトルや撮影地、撮影日時、キーワードやタグといった情報を付加することによって、分類されている…デジタル技術といわゆる「フォークソノミー」によって、整理せずに整理する方法が取られている。
これは震災アーカイブスだけではなく、震災文学においても同様の手法を取る事ができる。そうなのだ。戦争文学や震災文学においては、従来の分類方法による資料組織化だけでなく、フォークソノミーや相互関連づけなどによる資料組織化=物語と物語の有機的なつながり
を生み出すプラットフォームの存在が不可欠になっていると考える。
ソーシャル文学(Social Literature)の萌芽
そして、ひとつのスタイルとして、戦争文学や災害文学などのように、ひとつの大きな出来事の中に、それぞれの著者が自分の物語をつむぎ、歴史の立体の中に位置づけていくような、いわば「ソーシャル文学」が誕生すると考えている。
戦争や災害などは現実におきた悲しみの記述が多いだろうが、これからの出版社や著者ユニットは、そうした『世界観』を売り物にするソーシャル文学出版を目指してはいかがだろうか? 世界観をつくるメインライターは不可欠だろうが、企画会議/編集会議的に「世界観会議」があってもよいだろうし、その世界観をもとに複数の作家が違う登場人物による物語を描き、ある場面でそれぞれの登場人物が集まって潮流が生まれる。
また、その世界観に参加する作家を募集してもよいだろうし、コミックマーケットやPIXIVのようにアマチュアがその世界観を使って、創造の翼を大いに広げてもよいだろう。もちろん、その中には「権利ビジネス」を組み込むことを忘れない企業が大きくなっていくことは言うまでもない。
そしてこの、「ソーシャル文学」の存在と電子書籍のコンテンツスタイルと親和性が高いのではないか。一つの物語を読みつつ、すぐ脇を進行中の別の物語に寄り道したり、主観になっている登場人物が別々の物語を行き来しながら、新しい物語を誕生させたり。
電子書籍は、作り手だけが著述する世界ではなく、むしろ読み手側もストーリーテリングそのものに積極的に参加できる。賢い出版社は「君自身を実名でこの世界の物語に登場させてみないか」と呼びかけてくるかもしれない。ミヒャエル・エンデの「ネバー・エンディングストーリー」のように、物語の中から読者を物語世界に呼び込むことが、電子書籍の時代に本当に生まれると確信している。
あとは、どこの出版社/編集社/著者ユニットが、それを始めるか…だ。
平日は山中湖村の森の中にある図書館 山中湖情報創造館に、週末は清里高原の廃校になった小学校を活用したコワーキングスペースもある 八ヶ岳コモンズにいます。「わたしをかなえる居場所づくり」をイメージしながら、テレワークに加えて動画撮影やネット副業などにもチャレンジできる図書館/コワーキングスペースづくりに取り組んでいます。
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