衰退する出版業、新聞、テレビ等々が取りざたされ、インターネットをベースとしたデジタルコンテンツの可能性が議論されている。ただ[何か新しいこと]に取り組む前に、既存の出版情報通信放送産業においても、できることがまだまだあるのではないか…それらに取り組まずに、新しいことをはじめても…どうなんだろうね、という感じです。
僕がイメージするのは、例えば[新聞]を例にとれば、物理的な紙面の制約によって、切り捨てられた存在(例えば、記事としての原稿や採用されなかった写真、記者の生の声など)があるはず。それらをデジタル媒体で見ることができれば、それには[対価]を支払ってもいい…という人がいると思うのです。
アニメーション作品であれば、[設定画集]や[背景画集]などが売れていますし、[声優]さんの雑誌もある。完成したアニメーション作品を新聞の紙面に掲載された記事だとするならば、その裏側に[メイキング・オブ・ニュースペーパー]がある。それは既存の物理的制約のある新聞では切り捨てられていた素材であるが、そこにこそ存在する真実も同時に切り捨てているのではないだろうか。インターネットをベースとしたデジタルコンテンツとしての[新聞]には、そんな可能性がまだまだ存在していると思う。
また、特定の事件、政党のマニフェスト…追いかけ続け、ある意味で関し続けていくことが大切な出来事。テレビでは日々の事件だけが取り扱われるのに対して、新聞には本来のマスメディア/ジャーナリズムとしての役割を、デジタルコンテンツとして取り扱うことができるのではないか。
テレビもまたしかり、放送される番組だけではなく、そこに至るメイキングにあるドラマ、俳優自身の人間性等々、ハイビジョンで映し出されるのは外面的なものだけでなく、その内側の気持ちでもある。タレントのブログが受けているのは、そんな人間性を身近に感じることができるからなのだ。
出版ではどうであろうか。
完成された[書籍]をそのまま電子化することにも価値はあるが、[書籍]に至るまでのメイキングにもオーディエンスは興味関心がある。誰が、どうやって作っているのか、何を考え、何を盛り込み、何を切り捨てているのか。雑誌の取材であれば、紙面にならなかったテキストや写真、ひょっとしたら動画などもあるかもしれない。完成品に至る過程がデジタルで顕在化させることで、オーディエンスはさらに食いついてくるのだ。
これは新しい何かをつくることではなく、今現在製作している過程そのものを、デジタルメディアによってインターネット上に出すことができれば、それになんらかの対価を支払うマーケットが存在しているのと考えている。
そこで、取材者、カメラマン、インタビュアー、編集者、編集長など、製作に関わる人たちの[顔]が見え始め、そこにオーディエンスとの『濃厚接触』が求められるのではなかろうか…と。
既存のメディアが生き残りをかけるのであれば、裏側すらも[さらけ出す]マーケティング手法があり、そこに『濃厚接触ビジネス』が生まれるのではないか…と、考えている。
これらの兆候はすでに、様々なドラマで顕在化しているではないか。
海外ドラマは、すべてそうした[仕事の裏側]を忠実に再現しているからこそ、オーディエンスの支持を受けているのだから。
平日は山中湖村の森の中にある図書館 山中湖情報創造館に、週末は清里高原の廃校になった小学校を活用したコワーキングスペースもある 八ヶ岳コモンズにいます。「わたしをかなえる居場所づくり」をイメージしながら、テレワークに加えて動画撮影やネット副業などにもチャレンジできる図書館/コワーキングスペースづくりに取り組んでいます。
コメント
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総論は賛成です。
そこまでさらけ出すのはいかがか、という作家もいますが(とりあえず思い出すのは光瀬龍が何かのあとがきでそのようなことを書いていました。)
有川浩が指摘するように、メディアの送り手は、見ることを強制はできないわけですから…
もっとも、省庁の発表を伝える新聞記事で、省庁の発表資料へのリンクがないような、今の日本の新聞社には、理解できない考え方かも知れません。 Like