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市民メディアに[序列]をつくらない番組スタイルを求めて…

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市民メディアに対して、僕がず〜〜〜っと抱いている疑念。

「市民メディアは小さいマスメディアなのか」ということ。たぶんそう簡単に答えが出るとは思えないのだけれど、ここで僕のような人間でも、声をあげ/書き留めておくことで、いつか誰かの検索結果に表示されればいいや…程度のつもりで書いてます。

前にも書いているのだけれど、市民メディアと呼ばれるほとんどの番組(コンテンツ)のスタイルが、どうしてもプロのそれと同じに《なろうとしている》点がすごく気になっているのです。
あるものは、某テレビ番組と同じように作ろうとしたり、NHKやBBCのドキュメンタリー番組風に作ろうとしたり、どういう訳か、プロフェッショナリズムのコマーシャリズム(商業的という意味)に乗っかっている[番組スタイル]を踏襲しようとしている。

 いったんこの模倣をはじめると、値段の高い機材/低い機材、編集設備の高いもの/安いもの、登場人物の人気/認知度の高い低い等々、さまざまな比較対象に[序列]が生じる。ひいては、市民メディア同士の間にも、あそこはレベルが高いとか、ここは低俗だとか、そもそも生む必要のない[序列]を生み出してしまう。
 そのことで、市民メディアとしてのメディア活動を始めて見ようと試みる人たちに対して、すでにある市民メディアのあり方そのものが、敷居を高くしてしまわないか…と、そんなことを思っているのです。

 で、ぼくはYouTubeのあり方を引き合いに出し、[序列]を生じさせないコンテンツづくりのあり方を模索したいと思っているのです。そこには、数百万円するデジタルハイビジョンカメラであろうが、ケータイ電話の動画撮影機能であろうが、そもそも[比較されないコンテンツのあり方]が存在している。なので、誰もが自分の持っている機材に《引け目を感じることなく》動画を撮影し、タイトルだのエンドマークすらつけることなく、じゃんじゃんコンテンツとしてアップロードし、共有を計っている。しかもオーディエンス側からは「だからYouTubeは見るに耐えない」ということが全く無いのだ。タイトルの有る無しに関わらず、エンドマークの有る無しに関わらず、字幕だとうが、キャプションがあろうがなかろうが、そんなことで比較すらされずに、おもしろい/興味深い動画コンテンツが成立することを、身をもって示している。そこにはプロがつくった動画だとかアマチュアが作った動画だとかという比較すら存在していない。

 一方で、市民メディアです、チャンネル◯◯です。なんて言い始めたとたんに、「番組の体裁」をとろうとし、その結果、プロの番組づくりとは違うよね、機材はチープだし、スタジオのセットもちゃっちいし…なんていう比較の対象に自らがなってしまう。これは市民メディアにとって大きなウィークポイントだと思うのです。

 ひょっとしたら、僕がイメージしているものは、「市民メディア」という対象ではないのかもしれないけれど、あらためて考えていきたいと思う。

 『市民メディアはなぜ既存のメディア番組の模倣をしようとするのか』

僕はそこに、意図する/しないに関わらず、市民メディア間に一種の[権威と序列]を発生させ、結果としてマスメディアがつくる番組との比較対象となり、その先にあるのは、大手NHKだのBBCだのを頂点とした《メディアのヒエラルキー》の中に組み込まれてしまう…そんな姿が見え隠れしてしまうのです。

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