仕事がら、デジタルアーカイブや地域メディア、市民メディア、地域コンテンツなどには、それなりに関心を持っている。
かつては、ストリーミング技術が始まったばかりのころに、清里でのイベント(「フィールド・バレエ コンサート」をISDNでストリーミングしたこともあった。
そんな中で、デジタル技術によって個人であっても、ネット上に「想いを伝える場」を得ることができるようになった。ポッドキャストもあれば、YouTubeなどもある。しかもそれらは、ほとんど無料で使うことができる場なのだ。
そこでにわかに、「地域メディア」や「市民メディア」という言葉を耳にするようになってきた。が、ほんの少しばかり気になる事がある。
それは、
「市民メディアは、所詮小さなマスメディアを目指すのか」
といことである。その考え方の中には
・機材はプロ用(性能や価格の順位づけ)
・しゃべりもプロのアナウンサー(格付け?!)
・番組構成もマスメディアっぽく(コメンテーターはどこぞの学識経験者…)
等々、マスメディアの放送番組を追いかけてしまいがちなのだ。そして、そこにある意識には、一種のヒエラルキー(階層)が生まれ、しらぬうちにメディアの権威づけが生まれてしまう。市民メディアよりは地域メディア、CATV、ローカル局、民放キー局、国営放送などの、言葉にならない順位付けみたいなものが生まれてしまう…ように思う。
アナログ時代であれば、必要な機材も高価で、とても個人で購入できるようなものではなかった。放送に対する許認可(免許制)もやむを得ないと思う。そんな中でのヒエラルキーは…百歩ゆずって認めよう。しかしながら、せっかくデジタル技術やネットワーク技術が、個人の手のとどく範囲にあるのならば、それを使った「市民メディア」は、そうしたヒエラルキーにわざわざ自ら縛られるようなことは、望ましいとは思えない。
素人がやっているから…という理由だけで、批判する人たちがいるが、それは一方で「権威主義」をひけらかすことになってしまうと思うのだ。
「市民メディア」は、マスメディアを模倣する必要はない。
「市民メディア」は、所詮小さなマスメディアなのだ…などと、思われないような取り組みが、一方では必要なのではないだろうか。
そんなことを考えていたりする。
平日は山中湖村の森の中にある図書館 山中湖情報創造館に、週末は清里高原の廃校になった小学校を活用したコワーキングスペースもある 八ヶ岳コモンズにいます。「わたしをかなえる居場所づくり」をイメージしながら、テレワークに加えて動画撮影やネット副業などにもチャレンジできる図書館/コワーキングスペースづくりに取り組んでいます。
コメント
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同感ですね。
むしろマスメディアではどうしてもできないことを
めざすべきでしょうね。 Like
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ところが残念なことに、多くの市民メディアは、マスメディアスタイルにとらわれすぎてます。また、オーディエンス側も、市民メディアにマスメディアスタイルを求めていたりするのです。
これは、大手出版社の百科事典とWikipediaを同じテーブルで比較することにも似ていると思うのです。Wikipediaは○○百科事典よりも劣るよ…みたいな感じ。そもそも別物であることがわかっていないし、そういう比較論に終始している時点で、ものことの本質的な変化を理解できないだろうなぁ…なんて思ったりするのです。
『マスメディアではどうしてもできないこと。』
たぶん、逆立ちしようが、ひっくり返ろうが、マスメディアではぜったいできない、市民メディアでなければ実現不可能なコンテンツ(あるいは番組…のようなもの)づくりに、取り組んでみたいところですね。
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